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[Report] "Eiko Ishioka: Blood, Sweat, and Tears—A Life of Design”

【展覧会レポート】「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」

FEATURE2021.02.18

【展覧会レポート】「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」

二度と開催不可能と言われる石岡瑛子の大回顧展

アートディレクター、デザイナーとして、世界を舞台に活躍した石岡瑛子(1938-2012)。彼女の多彩かつ独創的な仕事の数々を紹介する展覧会を、東京都現代美術館が企画、このほど開催されました(会期:2020年11月14日〜2021年2月14日)

本展は、資生堂の宣伝部にデザイナーとして入社した1961年から、ハリウッド映画に参画している最中に病でこの世を去る2012年まで、アートディレクターやデザイナーとして、幅広い領域で活躍し、新しい時代をその手で切り開いてきた彼女の仕事の足跡をたどる、世界でも初となる大回顧展です。

「血が、汗が、涙がデザインできるか」という、極めてインパクトのある展覧会タイトルは、2003年に開催された世界グラフィックデザイン会議で講演した、石岡自身の言葉からとられたもの。石岡の仕事への姿勢と情熱を表現したセンテンスとして引用されています。

「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」フライヤー
ビジュアルは、石岡が衣装デザインを手がけた映画『ドラキュラ』におけるドローイング

本展で紹介するプロジェクトは、初期の広告キャンペーンから、映画、オペラ、演劇、サーカス、ミュージック・ビデオ、北京オリンピックのプロジェクトなど多岐にわたります。展覧会開催にあたり、その数だけ版権使用などの承諾が必要でした。準備期間中は交渉の連続で、とても苦労したとのこと(担当学芸員談)。今回のような規模での回顧展はおそらく二度とないと言われています。

【TECTURE MAG】編集部では、展覧会の概要について昨秋、作品の公式広報画像とあわせてお伝えしています。
https://mag.tecture.jp/event/20201123-18022/

本稿では、石岡瑛子という稀代の表現者の、その唯一無二の個性と情熱が刻印された仕事の数々を、開幕の前日に実施されたプレス内覧会で撮影が許可された展示の写真と、同日にプレス向けに開催された、東京都現代美術館学芸員の藪前知子氏のレクチャーの内容と、その際に配布された『展覧会解説』のテキスト(執筆:藪前知子氏)より要点を引き、レポートします(Photographs: en / TEAM TECTURE MAG)

第1章「TIMELESS:時代をデザインする」

展覧会は、東京都現代美術館の1階と地下2階の企画展示室を使い、「TIMELESS:時代をデザインする」、「FEARLESS:出会いをデザインする」、「BORDERLESS:未知をデザインする」の3つの章立てで構成されます。

第1章では、石岡瑛子が渡米して「世界の石岡瑛子」になる前、日本国内で手がけた、主に商業コマーシャルを中心とした展示です。

第1章 主な展示:資生堂、パルコ、角川書店 各社広告キャンペーン(ポスター、CM 1960s-1980s)、角川書店『野性時代』(雑誌 1974-1978)、大阪万博、パッケージデザイン、ブックデザイン(装丁)、ヒロシマ・アピールズ、ほか

ジェンダー、国境、民族といった既存の枠組みの刷新、新しい生き方の提案を、ヴィジュアルな言語から社会に投げかけた石岡瑛子。グラフィック、エディトリアル、プロダクトなどのデザインを通して、1960 年代の高度経済成長期から 1980年代に至る、消費行動を通した日本大衆文化の成熟を辿る。時代をデザインしつつ時代を超越しようとする姿勢は、その後の彼女の展開を予言するものとなる。(展覧会プレスリリースより)

「デザインとは社会に対するメッセージである」

石岡瑛子は1938年(昭和13)7月、東京・文京区の生まれ。父の石岡とみ緒は、日本におけるグラフィックデザイナーの草分けの1人でした。

御茶ノ水女子大学付属高等学校を1957年(昭和32)に卒業した石岡は、現役で東京藝術大学に入学。美術学部工学科(現在のデザイン科)で図案計画を専攻。父親と同じグラフィックデザインの道を志していた1960年初頭の日本は、社会におけるデザインの重要性への注目が集まっていた時代と重なります。
藝大在学中の1960年、石岡は、東京で開催された世界デザイン会議を聴講、そこで「デザインとは社会に対するメッセージである」という世界的なデザイナーたちの発言に大きな影響を受けます。

大学卒業後と同時の1961年(昭和36)、石岡は資生堂に入社します。その面接での席上、石岡が「男性と同じ仕事と待遇を」と主張したという逸話は、その後の活躍を思えば当然と言えますが、当時の面接官は面食らったことでしょう。東京オリンピックが開催される3年前のことです。

当時は男ばかりだった宣伝部に配属された石岡は、資生堂のグラフィックデザイナーでアートディレクターの中村 誠(1926-2013)の指揮のもと、1966年の夏のキャンペーンで手がけたポスターで世の注目を集めます。

「太陽に愛されよう」というキャッチコピーが添えられ、夏の海辺に、小麦色の肌とのコントラストが眩しい白い水着を着けた女性が寝そべり、意志の強そうな黒くて太い眉眦(まなじり)を向けるこのポスターは、日本の広告として初の海外ロケで撮影されました(モデルは当時18歳の前田美波里)
健康的な女性の美に満ち満ち、それまでの化粧品メーカーの商業広告のイメージにはない斬新なポスターは大きな反響を呼び、軒並み盗難に遭うほどでした。

第2章「FEARLESS:出会いをデザインする」

石岡は1968年に資生堂を退社(翌年末まで嘱託として在社)。1970年に石岡瑛子デザイン室を設立し、フリーランスのデザイナー・アートディレクターとしての活動をスタートします。

下の画像は、展覧会場に用意された石岡瑛子の年譜の一部、活動初期の頃の歴です。よく知られたパルコ、角川書店の広告キャンペーン以外にも、車、雑誌の装丁、パッケージデザイン、日本万博博覧会、演劇の舞台美術など、幅広いジャンルの商業デザインに携わります。

石岡瑛子 年譜(一部)

1980年の11月、石岡は「全てをゼロに戻したい」と日本を離れ、ニューヨークへ移住、ニューヨーク大学に在籍します。なんの”つて”もない、文字通りゼロからの再スタートでした。

小さい頃から憧れていた海外での生活。約15カ月間の充電期間を経て、石岡は、日本での仕事をまとめた作品集『石岡瑛子風姿花伝 EIKO BY EIKO』を1983年に日米両国で出版します。自ら構成・編集したもので、この一冊をいわば名刺がわりに、石岡は海外での新たな仕事を獲得していきます。

『石岡瑛子風姿花伝 EIKO BY EIKO』に魅了され、1983年にオファーしてきたのが、ジャズ界の帝王、マイルス・デイヴィス(1926-1991 / Miles Dewey Davis III)。マイルスとの仕事は、のちに石岡瑛子の名を世界に知らしめることになります。

第2章の最初の展示、石岡瑛子著『石岡瑛子風姿花伝 EIKO BY EIKO』

マイルスとの仕事

マイルスからの依頼は、レコード会社移籍第一弾となるアルバムのアートワークという、極めて重要なものでした。石岡は、臆することなく、マイルスの「顔(マスク)」と「手」をクローズアップした独自のデザインを主張し、粘り強い交渉の末、彼女の目論見通りのデザインを実現させることに成功します。

マイルスの撮影は、アメリカを代表する写真家の一人で、石岡が尊敬するアーヴィング・ペン(1917-2009 / Irving Penn)に依頼。『TUTU(ツツ)』と題して1986年に発表されたこのアルバムは、グラミー賞最優秀レコーディングパッケージ賞を受賞しました。これにより、石岡は世界からの注目を集めます。彼女が48歳のときでした。

マイルス・デイヴィスのアルバム『TUTU』の展示
アルバム・パッケージ 『TUTU』(マイルス・デイヴィス作、1986年)アートディレクション
©The Irving Penn Foundation

第2章 展示:レニ・リーフェンシュタールとのコラボレーション(展覧会、書籍など 1980 / 1991)、マイルス・デイヴィス『TUTU』(レコード・アルバム 1986)、『M.バタフライ』(演劇 1988)、『忠臣蔵』(オペラ 1997)、『ミシマ—ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』(映画 1985)、『ドラキュラ』(映画 1992) ほか

1980年代半ば以降、石岡瑛子は、クリエイターたちとの新たな出会いによって、日本から世界へと活動の場を広げるとともに、グラフィックデザイン、アートディレクション、衣装デザイン、さらにはプロダクションデザインと、デザインの表現領域を超えていく。
エンターテイメントという巨大な産業のなかで個人のクリエーションのアイデンティティをいかに保ち、オリジナリティを発揮するかという問いに向き合いながら、コラボレーションによるデザインの可能性を拓いていく。(展覧会プレスリリースより)

映画『地獄の黙示録』日本版ポスター(左奥の展示:『M.バタフライ』の舞台衣装)

F.コッポラ監督との出会い

石岡が渡米する前、日本で手がけたグラフィックデザインが、のちに大きな出会いを石岡にもたらします。

フランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola / 1939-)が監督した、映画『地獄の黙示録』。1979年に公開されたこの映画の日本版ポスターを石岡が手がけているのですが、コッポラはこの日本版デザインを大いに気に入り、石岡瑛子を知るに至ります。この出会いが、1984年から石岡が関わることになる映画『ミシマ—ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』へとつながっていきます。

なお、コッポラと石岡は、この後の展示にも登場する、1992年公開の映画『ドラキュラ』でも協働を果たします。

『地獄の黙示録』ポスター展示の前から、映画『ミシマ—ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ』展示室をみる

美術監督として初の映画参加

『ミシマ—ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(Mishima: A Life In Four Chapters)』は、石岡がプロダクションデザイナー(美術監督)として、本格的に映画制作に携わった、記念碑的な作品です。

映画は日米共同制作作品(1985年公開)、1950年(昭和25)に実際に起こった「金閣寺放火事件」を題材とした三島由紀夫の代表作を原案に、総指揮はコッポラとジョージ・ルーカス(George Walton Lucas, Jr./ 1944-)、メガホンをポール・シュナイダーが執り、緒形拳と若き坂東八十助が出演した異色作で、カンヌ国際映画祭芸術貢献賞を受賞しています。

見る者の度肝を抜く斬新な舞台美術

監督からの「ミシマを視覚的に実験したい」という意図を受けて、石岡はさまざまな舞台美術(セット)をデザイン。その1つが、放火に及ぶ前の金閣寺学僧(坂東八十助)の心象を描いたシーンで用いられた、建物が真っ二つに割れて学僧に迫ってくる金閣寺。独特のミシマ解釈で難解とされるこの映画を象徴するシーンでもあります。

本展では、この場面で使われた金閣寺のセットを、1/1のモックアップで再現。展示室の壁と床も”金(Gold)”を貼るというこだわりで、日本では非公開となったこの映画の名場面と、石岡の斬新なアイデアを、迫力ある空間で伝えてくれます。

ブロードウェイに進出

1988年に手がけた『M.バタフライ』では、石岡は舞台美術、衣装、小道具のデザインを担当。これが、ブロードウェイでの初めての仕事となりました。

演出家のジョン・デクスターからは、3つの高低差をつけて行き来できること、シンプルでミニマム、かつ無限の変化に富む使い方ができること、ローテクのみで動きを表現できること、という条件が提示されました。
これに対し、石岡は、メビウスの輪のような、スロープ状の舞台装置をデザイン(下の画像、スクリーン参照)。群馬県・桐生の織物職人と協働して製作した衣装も高い評価を受け、舞台美術とコスチュームの2部門で、トニー賞にノミネートされています。

「誰も見たことがないドラキュラを」

1992年公開の映画『ドラキュラ』で、石岡は再びコッポラとのタッグを組みます。
コッポラからのオファーは、映画の衣装デザイン。ルーマニアを起源とするヨーロッパのモンスターの衣装を、日本人である石岡がデザインするという図式を前に、さすがの石岡にも躊躇するものがあったようです。しかし、コッポラから「ハリウッドの部外者ゆえに、石岡なら、誰も見たことがないドラキュラをデザインできる」と説得され、仕事を引き受けます。

誰も見たことがないドラキュラ、それは、黒いマントを纏わない、色彩に満ちた衣装でした。多面的で「万華鏡のような」ドラキュラのキャラクターまで、石岡は衣装を通じて造形しようと試みます。

黒いマントを纏わない新たなドラキュラ造形

本展のフライヤーに使われているドローイングは、映画『ドラキュラ』の衣装原案の1つ。アスリートばりの筋肉そのものを身につけているような、独創な赤い鎧をイメージしたデザイン。ドラキュラがその身に秘めた怪力を表現しています。

このほかにも、クリムトの絵画「接吻」をモチーフとした黄金の棺衣、石岡いわく「ドラキュラのトランスセクシャルな魅力」を強調した真っ赤なローブなど、映画で実際に使用された衣装を見ることができます。
展示品に近づいてみると、登場人物に設定されたキャラクターから石岡が着想を得たという、さまざまな生き物のモチーフ(蛇、エリマキトカゲ、アルマジロ、ミミズなど)を確認できるのと同時に、ハリウッド映画の衣装の豪華絢爛さ、刺繍の細やかさなどに目を奪われます。

本作品で、石岡は1993年アカデミー賞の衣装デザイン賞を受賞しています。

プロジェクトにおけるドローイングの重要性

本展では、石岡が各プロジェクトで描き、遺した、貴重なドローイング、鉛筆画の数々が展示されているのも大きな見どころです(下の写真:映画「ミシマ」資料)

海外での活動において、言葉や文化の壁が少なからずあったであろう石岡にとって、また、石岡のような出身地も母国語も異なる人間が集まった映画などのプロジェクトでは特に、ドローイングは、石岡の意思、意図したデザインの色やかたちを正確に伝え、共有するためのツールとして有効に機能しました。

誰も見たことのないものをつくる

トニー賞、アカデミー賞など数々の受賞に輝く石岡の元には、世界中からオファーが舞い込みました。しかし石岡は、仕事の大小(規模)や知名度とは関係なく、自身が「これ」と思う人物とのプロジェクトにしか興味を示しませんでした。

その1人が、のちに映画制作で何度もタッグを組む、インド出身の映像作家、ターセム・シン(Tarsem Singh / 1961-)です。

展示室の壁には、石岡が遺した言葉が記されている。
「私は衣装をやっているのではなく、視覚言語を作っているのだ。」

第3章「BORDERLESS:未知をデザインする」

石岡は、ターセム・シン初の長編作品で、ハリウッド進出第1作となる映画『ザ・セル』に、衣装デザイナーとして参画します。当時のターセムは、MTVやテレビCMなどで注目され始めたばかりの、新進の映像作家でした。
石岡の独創的な衣装は、圧倒的な存在感を放ち、映画の世界観を決定づけていると言っても過言ではありません。重要なシーン(下の写真、紫色の巨大マントを着けた男が王座の階段を降りていく場面)でも、石岡の発案が取り入れられました。

ターセムとは、2006年の映画『落下の王国(The Fall)』、さらに彼女の遺作となる映画『白雪姫と鏡の女王(原題:Mirror Mirror)』でもタッグを組み、ターセム作品にとって石岡は欠かせない存在となりました。

映画『落下の王国』(2006)ドローイング
映画『落下の王国』 (ターセム・シン監督、2006年)衣装デザイン
©2006 Googly Films, LLC. All Rights Reserved.

第3章 展示:『ザ・セル』(映画 2000)、『落下の王国』(映画 2006)、グレイス・ジョーンズ『ハリケーン・ツアー』(コンサート・ツアー 2009)、シルク・ドゥ・ソレイユ『ヴァレカイ』(コンテンポラリー・サーカス 2002)、ビョーク『コクーン』(ミュージック・ビデオ 2001)、ソルトレイクシティオリンピック(ユニフォーム 2002)、北京オリンピック(開会式 2008)、『ニーベルングの指環』(オペラ 1998-1999)、『白雪姫と鏡の女王』(映画 2012) ほか

オペラや映画、サーカスのコスチュームやオリンピックのユニフォームを通して、身体を拡張し、民族、時代、
地域などの個別的な属性を乗り越えた、未知の視覚領域をデザインしていく仕事を総覧する。永遠性、再生、夢、冒険といった普遍的なテーマを足掛かりに、人間の可能性をどこまでも拡張していく後半生の仕事は、常に新たな領域へと果敢に越境し続けた石岡自身の人生と重ねられる。(展覧会プレスリリースより)

グレイス・ジョーンズ『ハリケーン・ツアー』でのアートワーク(2009)
ビョークのミュージック・ビデオ『コクーン』アートワーク(2001)

ビョークとの協働は本人からのメールで

稀代の歌姫、ビョークとの協働は、彼女から直接、石岡に送られた1本のメールから始まりました。折しも、彼女の主演映画で、カンヌ国際映画祭で主演女優賞に選ばれた映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を石岡が見て、ビョークに強い関心を抱いていた矢先での着信でした。

完成したミュージック・ビデオ『コクーン』は、ビョークが提示したいくつかのモチーフや、人体のメタモルフォーゼから着想を得た作品で、コクーン(繭)は、恋人との一体感を暗示しています。
ビョーク石岡の間には、二人でミュージカルをにつくる構想もあったそうで、実現しなかったことが惜しまれます。

衣装の素材からデザインした『ヴァレカイ』

石岡の名は知らなくとも、衣装を見れば「ああ」と思い出す人が多いのが、シルク・ドゥ・ソレイユの舞台『ヴァレカイ』の衣装ではないでしょうか。封切りから12年をかけて世界各地を巡回した、大成功を収めたステージです。

石岡の数ある仕事の中でも、とりわけ「輝き」を放つこの衣装は、舞台では実際に使うことができないメタリックな効果を得るために、光沢のあるフィルムを転写した新素材が用いられています。この仕事では素材の開発も重要なものとなりました。

冬季オリンピックのユニフォームをデザイン

前述『ヴァレカイ』(2002)の仕事と並行して、2001年冬季オリンピックにおけるプロジェクトも進行しました。

ソルトレイクシティオリンピックに出場する選手のために、石岡は、スポーツウエアブランド・デサントのチームと共に、ユニフォームのデザイン開発に取り組みます。

ソルトレイクシティオリンピック、デサント提供のユニフォーム・デザイン(2002)

ユニフォームの1つ、「コクーン」は、繭のかたちをした赤いウェアの内部に、マイナスイオンと音響装置がセットされている、最先端技術と融合したデザイン(上の画、左端)。単に暖かいだけでなく、競技前に選手がまとい、集中するためのコンセントレーションウェアです。

石岡はこのあと、2008年に中国で開催された北京オリンピックでも、チャン・イーモウ(張芸謀)が監督した開会式のアトラクションで何千人もの演者が着用したコスチュームのアートディレクターを担当しています。

『北京夏季オリンピック開会式』(チャン・イーモウ演出、2008年)衣装デザイン
©2008 / Comité International Olympique(CIO) / HUET, John

本展の目玉・オペラ『ニーベルングの指環』の衣装

オランダ国立オペラで初演されたオペラ『ニーベルングの指環』(1998-1999)の展示は、本展における最大規模の展示で、大きな見どころです。

西洋におけるハイカルチャーの象徴であるオペラの仕事は、東洋人である石岡にとって、重要な仕事として位置付けられています。
実験的な作品であるがゆえに、このオペラは徐々に人々の支持を得ていき、2019年に最終公演を迎えるまで、約20年にわたり再演されました。

最後の展示は意外な作品

本展最後の展示室は、石岡瑛子の2つの作品、対照的な2作品が並んでいます。

1つは、映画『白雪姫と鏡の女王(原題:Mirror Mirror)』の衣装デザイン。これが、ターセム・シン監督との最後のコラボレーションとなり、石岡の遺作となりました。

映画 『白雪姫と鏡の女王』 (ターセム・シン監督、2012年)衣装デザイン
©2012-2020 UV RML NL Assets LLC. All Rights Reserved.

ハリウッド大作の衣装と同じ空間に展示されているのが、彼女が18歳のときにつくった絵本「えこの一代記」です。
「えこ」という女の子が、生誕から、戦中の疎開生活を経て、東京藝術大学へ入学し、素晴らしい先生や仲間に出会って、自分の卵が孵化するのを神に祈る、という物語で、石岡瑛子「最初の作品」と言えるレベルに仕上がっています。「世界の石岡瑛子」の軌跡を辿る本展、その出発点と言える作品への帰着をもって、大回顧展「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」は締め括られます。

「えこの一代記」展示

ものづくりの現場において、石岡は常に依頼者と対等の立場で、共同して作品をつくりあげていく姿勢を貫き、どんなプロジェクトであろうと、「誰も見たことのないもの」をつくることに挑戦した表現者であり続けました。彼女は一括りに衣装デザイナーという肩書きで呼称されることを嫌いました。

本展からは、グラフィックデザインの道を歩き始めてから一貫していた、彼女の強い意志が感じとれます。
コロナで混沌とした世界を生きる私たちに、さまざまな問いを投げかけ、示唆を与えてくれる企画展です。

石岡瑛子 1983年
Photo by Robert Mapplethorpe
©Robert Mapplethorpe Foundation. Used by permission.

石岡 瑛子(いしおか えいこ)プロフィール
1938年東京都生まれ。アートディレクター、デザイナー。東京藝術大学美術学部を卒業後、資生堂に入社。社会現象となったサマー・キャンペーン(1966)を手がけ、頭角を現す。独立後もパルコ、角川書店などの数々の歴史的な広告を手がける。
1980年代初頭に拠点をニューヨークに移し、映画、オペラ、サーカス、演劇、ミュージック・ビデオなど、多岐にわたる分野で活躍。マイルス・デイヴィス『TUTU』のジャケットデザインでグラミー賞受賞(1987)、映画『ドラキュラ』の衣装でアカデミー賞衣装デザイン賞受賞(1993)。2008年北京オリンピック開会式では衣装デザインを担当した。2012年逝去、享年73歳。

展覧会「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」

会期:2020年11月14日(土)〜2021年2月14日(日)※終了しています
会場:東京都現代美術館 企画展示室 1F・地下2F(東京都江東区三好4-1-1 木場公園内)

東京都現代美術館公式ウェブサイト
https://www.mot-art-museum.jp/
展覧会詳細(アーカイブ)
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/eiko-ishioka/


【TECTURE MAG】
東京都現代美術館 企画展「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」
https://mag.tecture.jp/event/20201123-18022/

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