3月末に結果発表を終えた第1回「TECTURE AWARD」。応募総数875作品の中から投票する指標の1つとなったのがアンバサダーによる作品コメントです。多様な分野から参加いただけたことで、ほかの建築賞には見られないさまざまな評価軸がありました。
本記事では、不動産視点での評価軸が見られた〈長崎坂宿プロジェクト〉にフォーカスを当て、設計者の小笠原太一 氏にインタビュー。後編では、建築の枠を超えて地域に入り込み、事業を構想・実装していくプロセス、SNSやスタディツアーを通じた関係づくり、そして「ひとり地域開発」と名付けた次なる構想まで掘り下げています。

〈長崎坂宿プロジェクト〉。Photo: 小笠原太一
小笠原太一|建築家・小笠原企画 代表
1979年 大阪府生まれ、滋賀県育ち。2002年 京都精華大学芸術学部建築学科 卒業。2011年 中国に渡り、上海万谷建築設計にて10万平米を超える大型商業施設や「創意園」と呼ばれるクリエイティブオフィスの設計・開発に携わる。2016年 帰国後、福岡に移住。インバウンドやシェアリングをキーワードに、建築の企画・設計から開発・運営を行う小笠原企画を設立。
↓〈長崎坂宿プロジェクト_フェーズ1〉TECTUREの作品ページはこちら
https://www.tecture.jp/projects/5305
↓高橋寿太郎 氏のアンバサダーコメントはこちら
https://award.tecture.jp/ambassadors/takahashi
「こだわり」ではなく、「できる場所」としての長崎
── 長崎で事業を始めたきっかけは何だったのでしょうか?
小笠原太一 氏(以下、小笠原):特に長崎にこだわっていたわけではありません。当時住んでいた福岡から通える範囲で、自分の資金でも始められる場所をリサーチした結果、北九州と長崎が候補に残りました。その中で、リノベーション分野での目立った取り組みが少なく見えた長崎に、事業戦略としての可能性を感じて選んだという経緯です。
また当時は、設計の仕事だけで安定した収入を得るのが難しく、単純にお金がなかったという現実もありました。自分の考えをそのまま反映できる仕事にはなかなか巡り会えませんでしたし、言うまでもなく、そうした仕事を継続的に依頼してくれる理想的な依頼主も現れませんでした。
それなら、「いっそ自分自身が依頼主になればいい」と腹を括ったことが、この取り組みの原点です。

斜面に沿って広がる長崎の街並み。Photo: photoAC
失敗の中で見えた、自分なりの道筋
── これまで、どのような経験があったのでしょうか?
小笠原:大学卒業後は設計事務所に勤務していましたが、26歳のときに所内のプロジェクトがひと段落し、事務所の人員も足りていたため、半ば強制的に独立することになりました。
その後は、多くの若手建築家と同様に、知人からの紹介などで細々と仕事を続けていましたが、思うようには軌道に乗らず、30歳のときに一度廃業を経験しています。

一度目に立ち上げた事務所で手掛けた内装設計。Photo: 小笠原太一

コンペで勝ち取ったインスタレーション設計。Photo: 小笠原太一
小笠原:転機となったのは、中国上海で都市開発に関わる求人を見つけ、再び会社勤めに戻ったことです。中国では、プロジェクトの規模が大きかったこともあり、その背景に物語性や歴史的文脈が強く求められました。当時の日本で携わってきたプロジェクトでは、そのような物語性を求められる機会は少なかったので、とても勉強になりました。
また、延床10万平米を超える大規模な開発事業に携わる中で、空間をどうつくるかだけでなく、「時間をかけて空間を育てていく」という視点を、あらかじめ設計に織り込む必要があると実感しました。施設が流行し、人が集まり、やがて飽きられて衰退していく。そうした「時間の流れ」を建築的に落とし込む視点は、今のプロジェクトにも色濃く活きています。

上海の設計事務所で手掛けた、商業開発のプロジェクト。Image provided: 小笠原太一
小笠原:帰国後に再び設計事務所を立ち上げましたが、小規模案件を積み重ねるだけでは安定した収益に繋がらず、コンペに挑戦しようにも人手や資金が足りないという状況が続きました。それならば自分で仕事を生み出そうと決め、事業モデルの構築に踏み出しました。
実際に取り組みを重ね、マスタープランや構想を発信していく中で、「この場所にストーリーを与えてほしい」といった依頼が、地方創生に関わる企業や広告代理店から届くようになりました。

山間の集落における町興しのマスタープラン。Image: 小笠原太一

リトリート施設のマスタープラン。Image: 小笠原太一
戦略的に選び、すべてを救わないからこそ続く
── 事業主として、大切にしている考え方はありますか?
小笠原:事業モデルとしては、「その土地の人が出資者になる」ことが大切です。空き家活用では、外部の人間が物件を買い取って改修・運営するケースが多く見られますが、その場合、土地にお金が還元されず、事業が成功しても地域住民から疎まれてしまうことさえあります。
だからこそ、その土地の人が一定のリスクを負い、事業がうまくいった際には利益がその土地の人に直接還元される仕組みをつくることが重要だと考えています。

〈長崎坂宿プロジェクト〉における事業モデル。Image: 小笠原太一
── この空き家の事業モデルは、長崎以外でも応用可能だと考えていますか?
小笠原:応用できる地域は限られると思います。空き家活用というと、「すべてを救うべきだ」といった前提があるようにも見えます。しかし、人口減少が進む日本においては、むしろ再生すべき場所を見極め、それ以外は潔く手放すという「戦略的撤退」の視点が必要だと私は考えています。そのうえで、自らの課題として資金を投じることを厭わない地主の存在が不可欠になります。
全国の地域が、限られた人材や資本を奪い合うゼロサムゲームを繰り広げている中で、人が自然と集まってくる場所などそう多くはありません。そこに外部からアイデアをもった人間が関わることで、土地のポテンシャルは大きく引き出されていきます。そして私は、建築家にはその可能性を引き出す力があると信じています。
自己紹介から始める、興味の導線
── 小笠原さんは、SNSを巧みに活用されている印象があります。
小笠原:SNSでの発信を始めたのはコロナ禍のころです。当初は海外からの観光客をターゲットにしていましたが、渡航制限によってその見込みが立たなくなり、日本人の利用者を増やす必要に迫られました。それがSNSを始めたきっかけです。

小笠原 氏のX。
小笠原:SNSは、自分の取り組みを知ってもらうための「入り口」として活用しています。投稿の内容は主に自己紹介や活動の概要で、そこから興味をもってくれた人には、オンライン・オフラインそれぞれで、より深く知ってもらえる機会を設けています。
意外だったのは、「仕事を依頼したい」という人よりも、「自分でも同じような取り組みをしてみたい」という「やり方」に興味をもつ人が圧倒的に多かったことです。そのことが、自分の経験を共有していこうと考えるきっかけとなり、以降の活動にとって大きなブレイクスルーになりました。

SNSを起点とした社会課題解決への導線。Image: 小笠原太一
小笠原:オンラインでは、noteのメンバーシップ機能を活用して、マーケティング講座や自主事業のはじめ方講座などを開催しています。テーマにしているのは、私が26歳で初めて独立したときに教えて欲しかったことや、自主事業に取り組み出したころに知っておきたかった実践的な内容です。
一方オフラインでは、長崎まで実際に足を運んでいただく「スタディツアー」を毎月開催しています。現地を案内するだけでなく、プランによっては参加者と一緒に企画書を1冊仕上げるところまでをサポートするプランもあります。

スタディツアー。
小笠原:もっともミニマムな日帰りのスタディツアーには、毎月10人ほどが参加してくれていますが、なかには「民泊で稼ぎたい」「同じことをやれば、同じ成果が得られる」と考え、表面的に模倣しようとする方もいます。ですが、私の取り組みは「建物ありき」なんです。場所があって、そこの魅力を見出して、どんな手を加えるかを考える。その結果が長崎では、たまたま空き家活用の民泊だったというだけだということを伝えています。
社会課題を気にせず「民泊で稼ぎたい」というのが目的であるなら、もっと簡単な方法がいくらでもあるはずですからね。
10棟より10人へ ─「ひとり地域開発」を広め実践者を育てる仕組み
── 〈長崎坂宿プロジェクト〉での取り組みを、今後どのように発展させていきたいと考えていますか?
小笠原:〈長崎坂宿プロジェクト〉で私が実践している手法やノウハウを、「ひとり地域開発」と名付けています。これは、補助金や行政に頼らず、空き家一軒からでも地域を動かすことができる、実践的なアプローチです。「仲間や資金がなければ始められない」のではなく、「ひとりで始められるサイズ」にあえて落とし込むこと。そこに、この手法の戦略性があります。地方では人も資本も限られています。だからこそ、最小のリソースで始めて、最大限の効果を生む方法が求められます。
もちろん、私ひとりで手がけられる改修には限界があります。資金を集めて人員を増やし、事業を拡大するという選択肢もありますが、本気で社会課題(今回であれば、地方都市の空き家問題)を解決しようと考えると、そのやり方ではいずれ限界が訪れます。
それよりも、自分の手法を共有し、同じ価値観をもつ実践者を増やしていくほうが、持続的で、より大きな変化に繋がるのではないかと考えています。10棟の建物をつくるより、10人の実践者を育てる。多様な発想が集まることで、より広がりのある、より深みのあるものが生まれるはずです。
将来的には、こうした取り組みを通じて、物件と実践者をマッチングするような仕組みを提供したいと考えています。場所や人が違えば、当然課題も異なります。その違いを乗り越え、自走していける人をどう後押しできるか。そこに、私自身の次のテーマがあると考えています。

Image: 小笠原太一
Interview & text: Suzuki Naomichi