ヘルツォーク&ド・ムーロンやペーター・ツムトー(ピーター・ズントー)など数々の著名建築家を輩出してきたスイスでは、意外なことにこれまで建築年鑑が出版されていない。その理由の1つに、4つの言語圏が独自の文化を築いてきたという背景があるという。
今年、同国で初となる建築年鑑(Swiss Architecture Yearbook:SAY)が9月9日に発刊され、36の作品が選ばれた。スイス建築年鑑プロジェクトのパートナー団体の1つであり巡回展も開催中のスイス建築博物館(Schweizerisches Architekturmuseum:S AM)のキュレーター・篠原祐馬氏に、出版に至った背景や、作品の選定を通して明らかになったスイスが目指す建築について、オンラインでお話を伺った。
篠原祐馬(しのはら・ゆうま)プロフィール
1991年、米国サンフランシスコ生まれ。建築・アーバニズムの領域でキュレーター・編集者として活動。Storefront for Art and Architecture、Ruby Press、カナダ建築センター(CCA)での勤務を経て、現在スイス建築博物館(S AM)のキュレーターを務める。S AMでは、「Make Do With Now」展(2022)のキュレーション、「Beton」展(2021)・「Swim City」展(2019)の共同キュレーション、ミュンヘン工科大学建築博物館とスイス北西部応用科学芸術大学建築学部と共同で「Access of All」展(2021)の翻案を監修している。翻訳家としては、ブルーノ・タウトなどの英訳を手がけており、雑誌『ARCH+』『A+U』等にも携わる。ニューヨークのコロンビア大学で比較文学社会学の学位を取得した。
https://www.sam-basel.org/en
スイス初の建築年鑑が発刊されるに至った経緯
——ヨーロッパでは年鑑をはじめ建築出版が盛んです。なかでもスイスはその優れた建築文化が知られていますが、これまでどうして年鑑がつくられてこなかったのでしょうか?
篠原祐馬(以下、篠原)
スイスで建築年鑑がつくられてこなかった理由については、まずこの国の特殊性を理解する必要があります。スイスにはドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語という4つの公用語があり、1つの国でありながら異なる文化圏が存在しているのです。
篠原
建築界も同様で、自治体ごとの建設文化、また大学などの教育方針などが異なるため、建築家同士でも、言語だけでなく課題や考え方などがまったく違っています。スイス全域で読まれている定期刊行物もありません。多様性はスイス建築の強みですが、国レベルでの議論や交流はこれまで盛んではありませんでした。
こうした現状を踏まえ、「スイスの建築」とは何かを問い直し、世界に発信する機会として2018年に建築年鑑プロジェクトが始まりました。
異なる文化圏の存在が作品選定に与える影響
——異なる建築文化圏の存在は作品の選定プロセスにも影響していますか?
篠原
建築年鑑の作品選定プロセスでは言語、地域、世代、性別などの中立性を非常に重視しています。まず多様なバックグラウンドをもつ40名の建築専門家が、2020年9月1日から2022年8月31日の間に建てられた作品*を5件ずつ推薦し、そのうえで選定委員会が建築家によるプレゼンテーションを受けて36作品を選びました。
作品の選定基準は「都市/建築作品としての質」「プロジェクトの妥当性」「社会への貢献度」「持続可能性に対する信憑性」の4つです。
*選考対象は、在スイスの設計者またはクライアントによるプロジェクト、海外の設計者によるスイスに建てられたプロジェクト、スイス人の設計者による海外に建てられたプロジェクト。
掲載作品から見えてきた傾向
——選ばれた36作品に共通するテーマはありましたか?
篠原
スイス建築年鑑プロジェクトのパートナーである建築雑誌『werk, bauen+wohnen』の編集チームが36作品を整理したのですが、そこから以下の8つのテーマが浮かび上がりました。
・Climate-conscious construction(環境に配慮した建設)
・Reclaimed spaces (再生された空間[社会運動・草の根活動から生まれる建築])
・Increasing density(高密度化)
・Transformations(既存建物の転換)
・Preserving(既存建物の保存)
・Building landscapes(建築の建つ景観/ランドスケープ)
・Village tales(地方や山岳地帯の建築)
・Out in the World(世界におけるスイス建築)
篠原
また、今回は36作品のうち12作品が改修プロジェクトでした。スイスでは若手建築家も大きい設計事務所でも積極的に改修を行っていますが、特に若手にとっては環境問題は大きなテーマで、「エコロジカルな建築」は注目されています。他には無垢材を使った木造建築や、解体された建物の建材のリユースプロジェクトなども選ばれています。
地域ごとに見られた課題の違い
——スイス国内で地域ごとの違いはありましたか?
篠原
一番大きいのは平地と山岳地帯に建てられる建築の違いです。都市部のある平地では、すでにある街をさらに高密度化するにはどうしたら良いのかという課題が見られました。反対に山岳地帯では過疎化が進む地域も多く、建築によって集落をどう活性化するのか、また場所によってはコロナ禍以降に移住者が増えた村もあり、地域の特性を保ちながらどう移住者を受け入れていくのか、といった課題がありました。
篠原
その他、例えばスイス建築博物館のあるバーゼルでは、財団が土地を買い上げて将来的に住み良い都市をつくることを目指した実験的な都市開発も増えており、今回も若手建築家による集合住宅が選ばれています。
日本における潮流との比較
——篠原さんは昨年「Make Do With Now: New Directions in Japanese Architecture」という、日本の若手、特に2010年代に活動を始めた世代の建築家を紹介する展覧会をキュレーションされました。建築年鑑プロジェクトで見えてきたスイスの潮流と、何か違いは感じられましたか?
篠原
「Make Do With Now」展では改修作品も数多く紹介したのですが、例えば柱を残して壁や天井を大胆に壊すといった日本の建築家の改修に対する自由でラディカルな考え方がスイスの若手建築家に大きな刺激を与えました。スイスにおける改修はまだ保守的なものがほとんどです。
また、日本の改修は予算や選択肢の制限に対する解であることが多く、「環境のため」という考え方はまだ少ないように思います。一方スイスでは、予算があってもエコロジカルであることを重視しして、あえて改修を選ぶ場合も増えています。ただ、日本の改修作品も結果として環境に配慮した建物になっていることも多く、そのことも展覧会では高く評価されました。
『SAY 2023』の書籍と展覧会について
——出発点は違えど、共通する結果に辿り着いているのですね。それでは、最後にスイス建築年鑑『SAY 2023』の書籍と展覧会についての紹介をお願いします。
篠原
『SAY 2023』の書籍では、36作品について図面、写真、文章で詳しく紹介することに加え、テーマごとに書かれたエッセイを通してまったく違う背景から生まれたプロジェクトの共通点を深掘りしています。
篠原
一方、スイス建築博物館で開催中の「SAY Swiss Architecture Yearbook」展ではポスターでの作品紹介に加えて、来場者にも選定委員会の一員としてノミネートされた129作品の中から自分が選んだ作品に投票してもらうという企画も行っています。専門家が選んだ作品とは違った作品が票を集めるという可能性もあります。
展覧会は今後スイス各地、またオーストリアやドイツにも巡回する予定です。山岳地帯や地方ではなかなか建築についてのパブリックな議論が行われる機会が少ないのですが、この巡回展を通してローカルな課題などについても議論を促していきたいと考えています。
その他の選出作品
『SAY 2023』書籍概要
出版社:Park Books
言語:多言語表記(ドイツ語、イタリア語、英語、フランス語)
価格:CHF 49.00『SAY 2023』ウェブサイト
https://www.park-books.com/en/product/say-2023/1390「SAY Swiss Architecture Yearbook」展開催概要
会期:2023年9月9日(土)-11月5日(日)
会場:S AM Swiss Architecture Museum(スイス建築博物館)
所在地:Steinenberg 7, CH-4051 Basel, Switzerland
開館時間:火・水・金 11:00-18:00、木 11:00-20:30、土・日 11:00-17:00
休館日:月曜日
入場料:一般 CHF 12、学生など CHF 8、18歳以下 無料※ 開催日時はいずれも現地時間
S AM Swiss Architecture Museum ウェブサイト
https://www.sam-basel.org/en/exhibitions/s-ay-2023
(2023.09.06 オンラインにて)
Interview & text by: Erika Ikeda