(谷中のトップ画像提供:HAGI STUDIO)
東京・谷中の地で設計事務所「HAGI STUDIO」を主宰しながら、同エリアでリノベーションした建物で事業を行っている宮崎晃吉(みやざき・みつよし)氏。
「最小文化複合施設」〈HAGISO〉、谷中の街をホテルに見立てた宿泊施設〈hanare〉、また西日暮里駅に隣接する商業施設〈西日暮里スクランブル〉など、その業態は多岐にわたる。
有名アトリエ系の事務所で設計に打ち込んでいた宮崎氏が、事業を立ち上げ、同じ街で活動を広げていった狙いはどこにあるのか。
建築を学んだ視点で街に働きかけられることは、どのようなものか。
具体的な事例をもとに、町医者のような立場で街と関わりながら、事業を持続的に発展させる秘訣を聞いた。
今回は#03「場所づくりのクリエイティビティを発揮する」です。
(取材:2020.07.06 〈西日暮里スクランブル〉にて、jk)
Photographs: toha(特記をのぞく)
■人の営みが伝わってくる街が心地よい
── 宮崎さんが谷中の街に関わるようになった経緯は、どのようなものですか?
宮崎:もともと僕は群馬から、大学進学のタイミングで上京しました。東京藝術大学だったので、西日暮里からも近い上野界隈です。そこで「萩荘」という空き家だった木造アパートに友だちが住み始めて、なんとなく一緒に住むことになりました。
自分はそれまでに東京のいろんな街に住んだことがあったのですが、なにか居心地のよさが違うのですね。なんでだろう? と思っていたわけですが、そんなときに2011年の東日本大震災がありまして。萩荘の大家さんはもう心配になって、壊して駐車場にするという話に一時期なりました。
僕はそのとき、磯崎新さんのアトリエに勤めて、海外の劇場のようなビッグプロジェクトを担当させていただいていました。それはそれで建築家冥利に尽きる感じだったんですけど、一方で自分がいいと思える街は、スラムみたいなところなんですよ。海外も含めて、どこに行っても(笑)。
建築家がつくる新しい街よりも、スラムみたいな街のほうが居心地がいい。いざ自分が住むかどうかはともかく、街として、人の営みが伝わってくるというか、はみ出てしまっている。家の中とか、だいたい見えちゃっているし。でもあんまり気にしていないし、洗濯物も外に干しているし。
建築よりも人のほうが強いというか、そっちのほうが圧倒的に魅力的で。自分がつくっているものとの繋がりが、よく分からなくなってきて。
そういうときに震災が起きて、萩荘もなくなるという話になったわけですけど。そうしてなくなっていくものが、記憶からもどんどん消えていくのも寂しいので、「最後に、お葬式でもやってやろうよ」という話をして。
「ハギエンナーレ」というアートイベントを2012年にやったら、予想外に人がたくさん来て、大家さんがびっくりして。「やっぱりもったいないかも」と、ちょっと直すということになりました。それが、今はカフェやギャラリー、ホテルレセプションや自分たちの設計事務所のある〈HAGISO〉です。
■誰に頼まれなくてもアクションを起こす
宮崎:〈HAGISO〉のプロジェクトは、クライアントワークじゃないんですよ。
僕が誰からも頼まれていない中で、「これをなんとか使いたい」「どうやったらずっと使えるかな」みたいなことを考えながら大家さんと相談していって。
大家さんとしては、どうしても直さなければいけない理由もなかったわけです。でもあれだけ大勢の人が来て、もったいないなという感情があり、新築のアパートを建ててもな…というのもあったし、両方だったんですけど。
たぶん僕が「設計させてくださいよー」と言うだけだったら、大家さんは「うん」とはならなかったと思います。それは僕も感じていて、僕がまるごと借りて運営するし、僕も初期投資を出すので一緒にやりましょうというかたちでやったんです。
そのときは1千万円くらい借金して、大家さんと一緒にお金を出してリノベーションして運営しています。
クライアントワークだけをやっていると、仕事を誰かに頼まれるのをずっと待つ感じになっちゃうじゃないですか。もちろん、頼まれてからのクリエイティビティの発揮の仕方もあるのですが。
その前に「こういう場所が必要じゃない?」とか、「こういう場所がほしいよね」というときに、アクションを起こしたりクリエイティビティを発揮する方向もあると思っていて。
それがすごく面白いなと。ある種、巨匠の建築家もできていなかったりするわけですよね。
小さくてもいいから、自分でリスクをとって、こういう場所を世に問うてみようと思ったのが〈HAGISO〉です。
それ以来、いわゆる立派な古民家ではない古い木造アパートをリノベーションしていると、「そんなのだったらうちにもあるよ」という大家さんが声をかけてくれるようになりました。
または「この物件いいな」と思ったら、法務局に行って、大家さんの住所を調べて手紙を送って、話をつけて借りたり。そういうことをしていたら街中に場所が増えていって、徒歩圏内で今、それなりの数を運営しているんです。
■「この街だったら、できること」を考える
── 場所から考えるというのは、最初からしていたのですね。
宮崎:別にカフェがやりたかったわけでもないし、こうした飲食店を経営することを目指していたわけではないですし。宿泊施設もやっていますけど、宿も最初からやりたかったわけではないし。
「この場所、この街だったら、できること」を考えると、こういうことがあるんじゃないかなぁと考えていきました。
── 業態は自然と広がっていったのですか?
宮崎:そうですね、連動する強さってあると思うので。だんだん連動する場所が増えていくことが面白くなるので、なるべく徒歩圏内でやっていくことになったんですね。
別に全部を自分たちで運営しなくてもいいと思っているんですが、どうしてもなんか、やりたくなってしまうというか、面白くなるんじゃないか、と。
設計している間に「こういう店にしたいな」と思ったときに、やりたい人を探すというのも1つだけど、自分たちでやるというのもあって。やってしまいがちなんですよね(笑)。
リスクといえば、リスクなんです。最初の1千万円の投資もリスクでしたし。
コロナなんかは、超ド級のリスクを感じますよね、実際。だけどまあ、分からないです、ここからどうなるか。
人と場所によってはうまくやることもできるんですけど、お店を持って運営すること自体、今の状況では賢い選択とは思えないですよね。家賃を払い続けないといけないし、人も雇い続けないといけない中で、これだけ社会が不安定になるとは思っていなかったから。
社会的にブレーキがかかっている状況でもあるんですけど、「改めて何が大事だっけ」ということが問われるし、自分としても問う時期だなと。
ただ、場所は守りたい。使い方を考えるという気持ちで、僕らも変わらなければいけないタイミングに差し掛かっているなと思います。
(#04 プロジェクトが生まれる瞬間に立ち会いたい に続く)