ゲンロンカフェで開催されたシンポジウム「山本理顕 × 藤本壮介 万博と建築 ──なにをなすべきか」で語られた議論を建築史家・建築批評家の五十嵐太郎氏に振り返っていただいた第1回目。
続く第2回の記事では、1970年大阪万博の後に変化してきた建築家の役割について話を聞いた。
トップ画像=2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)会場 イメージパース(2022年7月時点)提供:2025年日本国際博覧会協会
INDEX
- 建築家への見方が変わってきた
- 建築家がステップアップできない時代に
- 建築家はどこまで力を発揮できるのか
建築家への見方が変わってきた
── 1970年の大阪万博から50年ほどの間で、建築への見方、また建築家に依頼することへの見方がかなり変わってきたということですね。
五十嵐:
そうですね。あとはシンポジウムで語られた内容では、理顕さんが、先回1970年の大阪万博の総合プロデューサーをつとめた丹下健三さんの仕事を理想化し過ぎているのかなと思います。丹下さんは全体の会場計画と〈お祭り広場〉を手掛けたと思いますが(注:最初は京都大学の西山夘三も関与)、すべてを決めることができたポジションではなかったはずです。後から割り込んで、大屋根をぶち抜き、決定的なレガシーとなった岡本太郎の太陽の塔も、丹下さんが決めたわけではなく、もっと上の立場の人です。
大屋根の下の巨大なロボットのようなインタラクティブ装置、デメやデクには丹下健三研究室(磯崎 新が担当)が関わっていたと思いますが、個別のイベントやプログラムまでは当然手を出せない。ただし、当時の大阪万博のガイド本を見ると、設計者としてだけでなく、プロデューサーとしても建築家の名前が記されている館もあって(例えば前川國男の〈鉄鋼館〉)、確かに現在よりも高いポジションだったと思います。ほとんど広告代理店が主導する現在のような状況ではなかったのでしょう。
また丹下さんの時代には建築家が大きな影響力を持っていたのは事実で、東京オリンピックのときの〈代々木競技場〉は傑作です。でもあの建物の建設費は途中で足りなくなって、丹下さんは当時大蔵省の大臣だった田中角栄に直談判して、田中さんが「じゃあなんとかしてやる」と言って予算がつきました。そのことを丹下さんは日経新聞の「私の履歴書」に書いています。今そんな自慢話をしたら、大炎上でしょう。やはり今の社会では難しいだろうなと思います。
建築家がステップアップできない時代に
── 時代が変わっていくなかで建築や建築家に対する目がだんだんと厳しくなっていったように思います。またグローバル化が進んで日本の建築家が海外で活躍する一方で、国内で存在感を発揮できなくなっているようにも見えます。
五十嵐:
それはあるかもしれません。1980年代からのポストモダンの時期に、若い建築家が住宅から公共建築にステップアップし、大胆なデザインを設計しましたが、やがてコンペのハードルが高くなり、その後の世代は新規参入が難しくなっています。
ただ、日本がバブル経済の後に貧しくなり、新しい試みを嫌ったり、保守化していることが大きな理由でしょう。ノーベル賞だって今は日本人が受賞していますが、受賞した科学者自身が危機感をもって現状に警鐘を鳴らしているように、そのうち受賞できなくなるといわれています。昔の大学は自由に研究できて、そのときに芽生えた種が今のノーベル賞受賞につながっているからです。何が将来の可能性になるかわからないものですが、今の研究は最初から万馬券を狙うように仕向けられています。
(建築界のノーベル賞といわれる)プリツカー賞を取っている日本人の建築家たちもやはり、小さい住宅から大きいプロジェクトにステップアップできる世代でした。今はそのような回路が断ち切られて、若手建築家のチャンスが激減しています。
コンペ自体も、実績主義の傾向が強い。学校を設計したことがない建築家はずっと学校のコンペに参加できなくなったり、学校を設計したとしても10年ぐらいすると実績がリセットされるので、どうしても大手のゼネコンや組織設計事務所、あるいはスターアーキテクトに限られてきてしまう。昔に比べるとグローバル化が進み、すぐに海外のプロジェクトに関わる事務所が出てきましたが、国内の公共建築を手掛けないで、いきなり海外で大きなプロジェクトという現象も発生します。
ちなみに今度の大阪・関西万博では、若手建築家が休憩所やトイレなど、小規模な関連施設を担当することになりましたが、1970年の万博ではその世代が各種パビリオンを担当していたわけで、かなり後退しています。東京オリンピックでも、ザハ・ハディドを引きずり降ろした後、前回1964年東京オリンピックとは大きく違って、アトリエ系の建築家による施設はほとんど残っていませんでした。
建築家はどこまで力を発揮できるのか
── その中で今回、国家的なプロジェクトの万博に藤本さんがプロデューサーとして関わることになりましたが、山本理顕さんは万博やプロデューサーの任命責任がどこにあるかに終始されていました。これは、どのような背景から来ているのでしょうか?
五十嵐:
理顕さんは、建築家の可能性やできることを最大限に引き伸ばそうと考えておられると思います。それはそれで素晴らしいと思うのですが、やはり国のプロジェクトで今の世の中では、自分の事務所で設計を担当することには厳しい目が向けられるのではないかと思います。素晴らしい提案でも、選定の形式上問題になるからです。
過去にも、あるコンペのファイナリストに残った提案者が審査員の身内であったことが問題になり、その後に内規を設けて、そうしたことはできないようになったことがありました。いくら良い案であっても、利益誘導に見えてしまうと、不信感をもたれることになると思います。
藤本さんがプロデューサーに選ばれたこと自体は、僕は妥当だと思います。丹下さんが〈代々木競技場〉の設計者に決まった時は40代で、完成した時は50代のはじめの頃でした。当時はそれくらい若い人に任せていたわけで、次回が世界的に活躍している藤本さんであることに違和感はありません。
(3/4に続く)